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国宝太刀 名物「日光一文字」写し宮入法廣謹作

(表)天皇陛下御即位 御本殿平成之大修理完遂記念

(裏)奉納日光二荒山神社職員一同  宮入法廣謹作  令和元年八月吉日

鎬造り 庵棟 刃長 67.8cm 反り 2.4cm

備前国(現岡山県)には、刀身に反りが付き鎬造りとなった「日本刀」が完成した平安時代中期より室町時代末期にかけて、古備前・一文字・長船派など多数の刀工が作刀に従事し、日本における最大の刀剣製作地として栄えた。なかでも鎌倉時代中~末期にかけて、備前国福岡庄を中心に繁栄した「福岡一文字派」は数多くの名工を輩出し、幾多の名刀を製作している。その作風は、丁子の花が爛漫と咲きほこる様を漆黒の地鉄に焼き、一世を風靡した。

「日光一文字」は福岡一文字を代表する典型かつ傑作である。

一文字派の名称は作者銘に「一」を刻んだ作があり、それに起因している。刀には通常手で刀身を持つナカゴと呼ばれる部位に作者銘を刻むが、皇室や社寺へ納めるときに作者銘を刻まない場合があり、日光一文字はその可能性が考えられる。

本作は、もと日光権現社(現日光二荒山神社)に奉納されていたことから「日光一文字」と呼ばれるようになった。

戦国時代初期(16世紀初期頃?)、日光権現社に奉納されていたものを北条早雲が拝受したが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻め折、和睦を仲介した黒田孝高(官兵衛法号如水)の労をねぎらい、北条氏直が孝高に贈ったもので、以後黒田家に伝わり現在福岡市博物館に所蔵されている。

日光一文字の模作は、日光二荒山神社御本殿創建(一六一九年)以来の大修復完遂に合わせて5年前より実見調査・試作を繰り返し、令和元年8月に完成した。本歌(元の太刀)は一文字派の最高傑作でそれを模作するのは至難の業であったが、堂々とした太刀の姿、そして高低のあるダイナミックでリズミカルな刃文に焦点を絞り、見事に豪華絢爛な作風を模している。

日光二荒山神社

日光二荒山神社